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大阪地方裁判所 平成元年(ワ)8498号 判決

主文

一  被告は、原告甲野花子、同乙山松夫及び同丙川春子に対し、それぞれ金一二七万五〇〇〇円、原告乙山夏子に対し、金六三万七五〇〇円、原告乙山秋子及び同乙山一郎に対し、それぞれ金三一万八七五〇円、並びに右各金員に対する平成元年一〇月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを四分し、その一を被告の負担とし、その余は原告らの負担とする。

理由

一  請求原因一及び二の事実は、当事者間に争いがない。

二  本件事故に至る経緯について

1  戊田病院の診療・管理体制

《証拠略》を総合すれば、以下の事実が認められる。

(一)  戊田病院は、入院患者約七〇〇名を収容し、医師二二名、看護人(正看護士、准看護士、正看護婦、准看護婦)約三〇〇名が勤務する大阪府唯一の基幹精神病院であり、閉鎖病棟、準開放病棟、開放病棟、思春期病棟等合計一六病棟が設けられている。

六--二病棟は、病院南端部にある第六病棟二階に設置された男子準開放病棟で、慢性期で比較的症状が安定しているが、病識欠如、治療拒否、社会規範からの逸脱行為等があるため、社会復帰までには未だ長期の入院治療を必要とする患者を対象としており、社会復帰を促進する目的から開放的処遇を原則としている。但し、患者に自傷・他害のおそれがある場合には、治療措置として、右症状が鎮静化するまで一時的に保護室など外から施錠できる個室に収容することがある。同病棟の治療方法は、医師による薬物療法、精神療法に加え、看護人及び作業療法仕による作業療法、レクリエーション療法等の活動療法、基本的生活指導により、人間関係を築きながら患者の社会復帰を促進することに特徴があり、統一的な治療を図るため、医師及び看護人の間でケースカンファレンスが毎週水曜日約二時間行なわれ、一回当たり三~四名の患者について個別的な治療方針、看護計画が立案されている。

(二)  昭和六二年当時、六--二病棟には医師二名、看護人一七名(正看護士六名、准看護士五名、正看護婦四名、准看護婦二名)のほか、看護療法仕一名、ケースワーカー一名、病棟婦二名が配置されており、看護人の勤務は、日勤(午前八時から午後四時まで)、夜勤(午後四時から午後一一時まで)、深夜勤(午後一一時から翌朝午前八時まで)の完全三交替制であつた。他方、患者の日課は、午前六時三〇分に起床、午前八時に朝食、与薬、検温、ラジオ体操、午前九時一五分から一一時一五分まで作業レクリエーション、午前一二時に昼食、与薬、午後一時から三時一五分まで作業レクリエーション、午後四時三〇分に夕食、与薬、午後八時に眠前薬与薬、午後九時に消灯、午後一〇時に就床となつていた。

(三)  六--二病棟は、別紙図面のとおり、病室七室、保護室二室、診察室、処置室、面会室のほか、患者が自由に往来できるホールを有しており、昭和六二年一月三〇日当時、四九名が入院していた。同病棟の病室は全て相部屋で、当時、乙山及び丁原が入室していた七号室には六名の患者が入室していた。

2  丁原の病状と治療経過

《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。

(一)  丁原(昭和三九年一一月四日生)は、中学二、三年生ころから徐序に発病した破爪緊張型の精神分裂病で、中学二年ころから登校拒否が始まり、中学三年ころには母や兄弟に対する暴力行為や自分が胃癌ではないかと疑う心気念慮が見られるようになつた。丁原は、昭和五五年三月に中学校を卒業した後、父親の仕事を手伝つていたが、同年九月ころ、小学校三年生の妹と一緒に風呂に入りたがつたり、夜間、妹を外に連れ出して下着を脱がせようとし、同年一〇月以降は仕事に行かず、食事時以外は寝て過ごすようになつた。その後も、丁原には、昭和五六年の正月に来訪した父親の知人が自分を殺しに来たと言つて怯えたり、昭和五六年四月ころ、布団に大小便を失禁したり、引出しの中に小便をしたり、時計や電話の音を嫌がつて時計を捨てたり、電話のコードを切る等の異常行動が見られたことから、同月二日、戊田病院で精神分裂病の診断を受け、同月九日、昭和六二年改正前の精神保健法三三条に基づき、丁原の保護義務者である両親の同意により戊田病院思春期病棟の八--一病棟に入院した。

(二)  丁原は、当初から分裂病欠陥状態(情意鈍麻、無為好褥自閉)にあり、全体に意欲、根気に乏しく、昼間から部屋で寝ていることが多かつたが、昭和五八年初めころには、自宅への外泊も増え、作業療法にも参加するなど幾分病状の改善が見られた。しかし、同年六月ころから、丁原には、他の患者と席を取り合つて相手の左側頭部を殴る(同月二五日)など、他の患者に対する横柄な態度や力を誇示する言動が目立ち始め、同年九月ころからは病棟の患者との疎通が悪くなり、作業やレクリエーションへの参加日数も減少するなど逃避的な行動が目立つようになつた。

丁原は、物事を被害的に解釈する傾向が強く、昭和五八年九月一九日には、他の患者が「丁原君は短気やな。」と話しているのを聞いて悪口を言われたと思い、その患者と殴り合いの喧嘩をした。また、丁原には、昔の恨みを思い出して後から報復のため暴力を振るう性格的特徴があり、同年一二月二〇日、Y(患者)がテレビを見ているところを突然将棋盤で殴り付け、理由を尋ねられると、「あいつは以前おれのことを馬鹿にして命令したり、怒鳴つたりした。手先に使われた。それで腹が立つていつか仕返しするつもりだつた。」と答え、昭和五九年六月二九日午後一〇時三〇分ころ、睡眠中のYをラジカセで殴つて左眉毛部裂傷の傷害を負わせたが、その理由について、「以前から僕に嫌がらせをしていた。今日、部屋で喋つていたら、Y君に、うるさいときつく言われた。自分も話しているのに。腹が立つて殴つた。」と述べた。

(三)  丁原は、満二〇歳を過ぎたことから、昭和五九年一一月二八日、八--一病棟から六--二病棟に転棟し、当初ナースステーションに最も近い一〇号室に入室したが、無気力、不機嫌、被害的解釈傾向等は改善されず、昼間から殆ど自室で寝ており他の患者や看護婦と交流を持とうとしないため病室内で孤立する傾向があつた。また、丁原には、転棟当初、他の患者への睡眠妨害、おやつの強要などの問題行動が多く、同年一二月五日の看護日誌には、「病棟では相手にばかにされたと思い込んで暴力行為に出ることがあるので、言動に注意すること。」と記載され、同月一四日には、同室の患者の顔を二、三回叩いて猛烈な反撃を受けたことから保護室への入室を希望し、当時の主治医(和田医師)の指示で一週間保護室に入室した。同医師は、同月一九日のケースカンファレンスにおいて、丁原に関して「自分の感情の思うままの行動を取つている。現在保護室に入室しているが苦にならず、むしろ安心している様子。本人には、単純な目標(他の患者に強要しない。暴力を振るわない。)を達成できるよう指導する。」と指摘し、同日以降、夜間だけ保護室を利用するとともに、棟からの外出を禁止する方針を定め、昭和六〇年一月一二日、当面の目標として「なんとか暴力がなくなるように。」とカルテに記載した。

(四)  しかし、昭和六〇年一月に丁原の主治医になつた永島医師は、丁原に対人交流場面で被害的に物事を捉える傾向があり、他の患者に対する乱暴な行為がかなり頻繁に見られること、非常に自閉的で自分の心を表わさないこと、自発性、活動性が低下し、自ら保護室を好む傾向があることから、丁原の病状の根本を対人関係障害であると診断し、作業療法・レクリエーション療法を使用した対人関係改善により、医師及び看護職員と心の交流が持てるよう働き掛けることにした。

また、永島医師は、丁原を保護室に閉じ込めていたのでは他の患者との交流が不可能であり、逆に長期間拘束の弊害の方が多いと考えて、同月一九日、夜間の保護室利用も中止し、当時丁原の入眠が悪く、深夜他の患者に話しかけることが多かつたことを考慮して、同年二月四日、丁原に対し、抗幻覚作用のある精神安定剤ヒルナミンを増量(七日分)投与し、同月一一日、抗幻覚作用、賦活作用のあるクロフェクトン二五ミリグラム×六、衝動的行動を抑える作用を持つテグレトール二〇〇ミリグラム×三、アキネトン一ミリグラム×三、及び、ヒルナミン五〇ミリグラム×三を一日三回に分けて投与するよう処方を変更した。

(五)  丁原は、昭和六〇年二月から同年四月ころまでは病状が比較的平穏であり問題行動も減少していたが、同年五月から七月までは不穏な病状を示し、その間、月二回の割合で計六回被害念慮に起因すると見られる暴力行為(うち四回は深夜又は准夜に発生したもの)が見られたので、永島医師は、同年五月六日、それまでの処方に加えてハルシオン二錠を一日一回処方し、同年六月一七日、ヒルナミンを五〇ミリグラム×四に増量した。その後、丁原は、同年八月から昭和六一年八月までは再び平穏な病状に戻り、昭和六〇年一〇月一一日の一回以外には暴力行為も見られず、作業療法やレクリエーションへの参加回数も増えるなど職員との接触も改善されていた。

(六)  丁原の病状は、昭和六一年九月ころから再び悪化しはじめ、入浴や衣服の整理ができなくなつたり、看護人の指導に拒否的、反抗的な態度を示したり、他の患者に頻繁に食物をねだつたりするなどの生活の乱れが見られたほか、作業療法への参加回数も減少し、自室で終日横臥する無気力な状態が目立つようになつた。また、他の患者に対する暴力行為も増加し、同月一日昼前、食堂でA(患者)を足蹴りし、理由を聞かれると、「Aが臭いから、僕に近づいて逃げたから怒つてやつた。」という被害的な訴をしたため、永島医師は、同月八日、定時処方のうちヒルナミン及びハルシオンの投与を中止し、抗幻覚、抗妄想作用のある精神安定剤ウインタミン一〇〇ミリグラム及びセレネース三ミリグラムを投与した。丁原は、同月一五日夕食後、自分の副食を捨てたと言つて突然B(患者)に殴りかかり、左眼窩下部裂傷の傷害を負わせたが、暴行後も興奮状態が継続していたため、看護人の判断で一時保護室に隔離された。永島医師及び看護人らは、同月二四日のケースカンファレンスにおいて、丁原について、〈1〉暴力行為が再三見られる、〈2〉日常洗濯が全くされていない、〈3〉汚れた物ときれいな物の区別ができない、〈4〉昨年までは退院要求があつたが最近は全く要求がないという問題点を指摘し、今後の治療として、時間をかけて人間関係を深めていく中で日常生活の充実を図る方針を立て、さらに、暴力の問題について、必要に応じて保護室を使用する方針を再確認し、その際、あらかじめ丁原の精神状態が異常に悪く、暴力行為に直結する可能性が高いと判断した時には事前の保護室使用も考えるが、それ以外の場合には、原則として事後的な隔離で対処することにした。

丁原は、同月二九日の作業中にも理由なく隣に座つていたC(患者)を殴打したが、この時は看護人の注意指導により平静を回復したため、保護室入室措置は取られなかつた。

(七)  丁原は、昭和六一年一〇月四日午前五時五〇分、D(患者)が自分を見て笑つたと言つて怒り、ホール内でDを追いかけて突き飛ばしたが、看護人が注意すると謝罪して自室に戻つた。また、丁原は、同月一一日午後九時一〇分過ぎ、布団で臥床している同室のM(患者)に対し、ベルトを振り回して暴力を振るい、理由を聞かれると、「僕の顔を見て笑いよつた。部屋中バタバタ音を出して歩き回る、チェチェ口で言いおる。」と述べた。この時、丁原は、看護人の注意指導に従つてMに一応謝罪したが、看護人は、夜間の暴力行為であることを重視して、自己の判断で丁原を保護室に隔離した。丁原は、同月一九日昼食時、「顔を見よつたから。」という理由で乙山の頭を二、三回叩いたが、この時も看護人の注意により鎮静した。

(八)  丁原は、昭和六一年一一月四日の昼食時、先に座つていたE(患者)に「ドケ。」と怒鳴りつけ、三分後、F(患者)の顔にお茶をかけた。このとき、丁原は、看護人の注意に返事をせず不満気な表情をしていたが興奮状態にはなかつた。また、丁原は、同月中、終日横臥の状態で過ごした日が五日あり、同月一日には布団を被つて終日横臥の状態で過ごし、同月一四日には昼間作業に行かず寝ていたため、翌一五日の深夜一時過ぎまで眠れず、同日は午前午後とも殆ど自床横臥の状態で過ごし、同月一七日には毛布を頭から被つて寝ており、同月二〇日も相変らず自室にて横臥がちな状態であつた。

(九)  丁原は、昭和六一年一二月四日、他の患者に「文句あんのか。」と言つて挑発的な態度を取り反対に殴られたが、永島医師がこの件について話をしようとすると逃げてしまい、同月八日の作業中には、自分の方を見て笑つたと言つて、他の患者を後ろから殴りつけた。永島医師は、同日、右暴力行為の報告を受けて、丁原を日勤帯の間は保護室に収容して夕食時から解放するよう指示するとともに、暴力行為を抑制するため、定時処方に加え、夕食後にウインタミン一〇〇ミリグラムを投与するよう指示した。

丁原は、同月一一日午後八時ころ、再び同室のMを殴り、看護人に理由を聞かれると、「Mさんがチェッて言いよるから殴つたんです。」と述べたが、この件は、看護人が注意して他の患者の前で謝罪させたことで納まつた。翌一二日、永島医師は、看護人から右暴力行為の報告を受け、「最近暴力が多い。」とカルテに記載し、その後もウインタミン一〇〇ミリグラムの増量を継続したが、同月二九日、これを定時処方に組み込むとともに、従来のセレネース三ミリグラム×一を向精神薬ハロステン二ミリグラム×二に変更した。

(一〇)  丁原は、昭和六二年一月六日、G(患者)と口論して殴りかかろうとしたところ看護人に制止されたが、その後、直接他人の身体を攻撃したことはなかつた。しかし、丁原は、当時も他の患者におやつや果物を頻繁に強要していたほか、同月二三日、「腹が立つていた、イライラしていたから。」という理由で、五号室の窓ガラスを足で蹴り割り、看護人の判断により保護室に入室させられたり、同月二四日、自室のガラスにシャンプーを塗りたくり、同月二七日、自室から出て急に廊下を走り出し、突き当たりの壁を両手で叩いた後、五号室に入つて独語空笑したりするなど物に対する攻撃的行為や異常な行動を繰り返すようになつた。永島医師は、対人関係暴力が減少し、物に対する攻撃的行為が増加したことについて、基本的には病状改善の兆候であると考えていたが、反面、丁原が最近イライラしていると診断し、同月二四日、「この頃欲求不満が多いのか乱暴が多い。」とカルテに記載した。

(一一)  丁原は、昭和六二年一月三〇日午前中、乙山に対し、自分の代わりに買物に行くよう強要し、午後の入浴後にも、再度、乙山に買物を強要したが、乙山から二度も買物の許可を求められたのを不審に思つた看護人が調べた結果、丁原の買物強要が発覚し、丁原は、他患者が菓子を買いに行く午後一時三〇分から午後四時過ぎまでの間、永島医師の判断により保護室に収容された。その際、丁原は、乙山に対して、「告げ口した。」とか「覚えてろよ。」と罵つていた。

また、同日午後八時ころ、丁原は、ホールで睡前薬を口に入れたが服用せず、拒薬傾向を梅原看護婦に注意されると服用したが、七号室に戻る時に「飲んだらエエヤロー。」と言つて同看護婦を睨みつけた。

(一二)  永島医師は、丁原の右買物強要行為の抑止のために一時的に保護室に収容することが必要と判断して、右のとおり丁原を保護室に収容したが、夜間丁原が暴力行為に出る危険性はないものと判断し、夜間丁原を保護室に収容する措置は取らなかつた。また、当時、永島医師は、丁原の乙山との関係に、丁原の乙山以外の患者との関係以上に、格別注意・配慮すべき問題点があるとは全く考えていなかつた。

3  本件事故発生前後の状況

《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。

(一)  昭和六二年一月三〇日の深夜勤の看護人である藤森及び輪違は、深夜勤開始一〇分前の午後一〇時五〇分ころ病棟に入り、患者の人員確認、施錠点検、睡眠中の状態観察を行なつたが、当日は非常に寒かつたため、患者は全員頭まで布団を被つて就寝しており、騒いでいる患者はいなかつた。藤森及び輪違は、午後一一時、準夜勤の看護人から約三〇分にわたり患者の状態に関する引き継ぎを受けたが、その際、準夜勤のリーダーである梅原看護婦から日勤帯・准夜帯における丁原の買物強要及び拒薬傾向について説明された。

藤森及び輪違は、同日午後一一時三〇分ころ、不眠の患者に薬を飲ませ、夜間の排尿指導をした後、同月三一日午前〇時、午前一時、午前二時、午前三時三〇分、午前五時一〇分の四回にわたり、一回一〇分間程度の時間をかけて各部屋を巡回し、さらに、輪違一人で午前六時、午前六時三〇分の二回巡回したが、どの部屋も最初の状態観察の時と殆ど変化がない状態であり、午前六時ころ、七号室の患者であるMとKが起床してホールに現れた時も、同人らに別段変わつた様子は見られなかつた。

(二)  輪違は、午前六時四〇分、患者を起こしに七号室に入つたところ、乙山が頭から掛布団を被り「ウーウン、ウーウン」と唸つているのに気付いて呼び掛けたが応答がなかつたので、掛布団をめくると、敷布団の枕元に血液が混入した嘔吐物があり、乙山が左外耳道より出血して意識障害を起こしているのを発見し、午前六時五〇分、当日の担当医である川瀬医師に連絡した。午前七時ころ、同医師が乙山を診察したところ、脈拍及び血圧に異常はないが瞳孔が中等度散大していたことから、同医師は、乙山に酸素吸入を施した後、午後七時三〇分、昏睡状態の乙山を救急車で新世病院に搬送させた。乙山は、新世病院における検査の結果、外傷性の急性硬膜下出血、頭蓋骨骨折の疑いがあると診断されたが、その際、同病院の担当医が「大分時間が経つているな。」と感想を漏らした。乙山は、同日午前一二時ころから開頭手術により血腫除去等の処置を受けたが、同年二月六日午前一時一〇分、硬膜下及び硬膜外出血により死亡した。

(三)  丁原は、乙山の意識障害が判明した同年一月三一日午前六時四〇分ころ、看護人に本件事故のことを聞かれても険しい表情で「知らん。」と答えていたが、朝の検温後、看護婦が「丁原君、大変なことをしたそうやね。」と声を掛けると「ハイ。」と答え、「何をしたんや?」と言うと、「二〇回した。」と言つて、右足で何かを踏み付ける動作をした。その際、丁原は、看護婦から「何時頃?」と聞かれると「照灯後ずーつと後。」と答え、「なぜそんなことした?」と聞かれると「詰所で職員に告げ口した。」と答えた。丁原は、同年二月三日、永島医師の質問に対しても「布団の上から乙山の頭を蹴つた。」と答えたので、永島医師は、同年二月四日、六--二病棟の患者への影響及び丁原の暴力行為への対処を考慮して、丁原を男子閉鎖観察病棟である一--二病棟に転棟させた。

(四)  他方、七号室の患者Mは、同月一日、看護人に「乙山さん他の病院へ行つたの。」「叩かれたんやろ。床板の上でごつんごつん音がしてた。夜中やつたと思うよ。丁原さんにやられた。」と述べた。また、Mは、同月四日、看護人に「乙山さん死んだの?」と尋ね、看護人から乙山の件を知つているのかと聞かれると、「足でごんごんけつていた。」と言い、どうして看護人に言わなかつたのかと問われると、「言うたら叩かれる。何回もここ(右脇腹)叩かれた。」と言い、看護人に「乙山さんおやつ取られていた?」と聞かれると、「うん、僕ら二~三個やけど、丁原は二〇個位、もつと呉れ、もつと呉れ。前の晩に薬飲まへんから梅原さんに怒られたんやろ、あそこで『梅原覚えとけ。』と言つて怒つていた。丁原は、畳を破損したり、石鹸箱を割つたりしていた。」旨述べた。

看護人は、同月四日、同室のKにも事情を聞いたが、その際、Kは本件事故について「僕は眠つていたので知らない。」と答えたが、「丁原君が病棟を変わつたので安心して寝てました。」と言い、看護人から「丁原君怖かつた?」と聞かれると、「おやつを持つていると、すぐにくれくれと手を出す。Zさん(乙山)はいつもおやつを買つてこいと言われていた。断わると叩かれていた。僕も叩かれたことがある。ほつぺたが腫れた。大したことはなかつたので看護婦さんには言わなかつた。言えば仕返しされるのが怖い。何の事か判らないけどHさんが横になつていると、丁原君が大きな足で素足やけど顔の横をぎゆうつと押えていた。」などと述べた。

(五)  丁原は、同月一九日、枚方警察署警察官から本件事故に関する事情聴取を受け、「乙山さんに何か腹のたつことがありましたか。」という質問に対し、「いつも買物を頼まないのに、いつも菓子をくれとは言わないのに、詰所にいつも買物をしてくれとか菓子をくれと言うと告げ口したんが腹が立ちます。」と答え、動機を聞かれると「腹が立つたんで八つ当たりをしたんです。」と答えた。また、警察官から「どんなふうにして怪我をさせたの。」と尋ねられると、「乙山さんの頭を右足で二〇回くらい踏んだ。」「板のあるところで踏んだとき、踏むとゴンゴンと七回位音がした。」と答え、布団については「被つているとき、被つていないとき踏んだ。」と答えた。

4  乙山の症状

《証拠略》によれば、乙山の戊田病院入院中における精神分裂病の症状は、幻覚・妄想等の陽性症状は殆ど認められず、言葉が少なく、活動性が低く、意欲減退・感情鈍麻・自閉傾向が認められ、いわゆる陰性症状が主要病像であり、興奮や暴力的行為は殆どなかつたことが認められる。

三  被告の責任

1(一)  精神病院入院中の精神障害者は、その精神症状や性格などから自傷・他害のおそれが否定できないから、病院、医師、看護人としては、精神障害者が自傷・他害を伴う事故を起こさないよう、それぞれの立場において患者の動静に注意し、事故が発生しないよう配慮すべき注意義務があるものと解される。

(二)  精神障害者に対する治療は、かつては拘禁を第一とする考え方が主流であつたが、近年の向精神薬の発達に加え、拘禁が精神障害者の精神に悪影響を及ぼし、その社会復帰を困難にする面があるとの反省から、現代では、精神障害者の社会復帰を促進させる目的で、開放的療法が主眼となり、薬物療法及び精神療法に加え、生活指導、作業療法、レクリエーション療法等が実施されるようになり、また、病室に施錠せず、複数の患者を同じ病室に収容するなど、なるべく社会と同様の環境を作り、他の患者や看護人との接触をはかる治療が試みられている。

その結果、拘禁する場合に比較して、精神障害者が他害行為に及ぶ機会は増加する一面があるが、一旦事故が発生した場合に安易に医師の責任を認めるのでは開放化の治療理念を否定することになりかねないため、精神病の診断・治療方法の選択については、病状と治療効果、その侵すべき危険度との調和と、その治療に当たり医師として通常払うべき注意とを勘案して、右医療措置が医師の裁量に委ねられた範囲を逸脱した場合に限り医師の過失が認められるものと解するのが相当である。

(三)  ところで、医師が治療方法として開放的療法を選択したとしても、それによつて精神病院管理者が患者による暴力行為の発生を未然に防止すべき義務がなくなる道理は見出せず、むしろ、右義務を肯定することと開放的治療とは両立しうるものと考えられる。また、《証拠略》によれば、精神障害者が示す行動には何らかの意味があり、衝動的暴力行為の場合にも、患者が内的な欲求を自分でコントロールできなくなり突如として相手に暴力として受け取られるような表現をすることが多いこと、患者の暴力行為は、幻覚、妄想による場合以外にも、患者と他の人々との関係から生じるいきさつや、自分を正当に認められなかつたり、行動の自由を不当に制限されたり、要求が通らなかつたりする場合にもしばしば起こりうることが認められ、無断離院、自傷他害、けんか等の事故は、いずれも看護者の観察力や注意によつてある程度まで防止できることに鑑みれば、治療行為として開放的処遇を採用する場合には、医師には、各患者の症状、動静を的確に把握し、他害のおそれのある患者に対しては、他の患者と比較して重点的に観察、看護し、場合によつては一時隔離保護するなど何らかの方策を取るべき義務があるということができる。

2  本件事故の予見可能性について

(一)(1) 《証拠略》に前記二で認定した事実を総合すると、〈1〉丁原は退行状態にある若年性精神分裂病患者であり、その基本的症状は、人格水準の未熟性、感情の鈍麻・冷却等と表現される分裂病欠陥状態であること、〈2〉丁原の暴力行為は、分裂病欠陥状態を基盤とする関係被害念慮(状況を被害的に受取りやすい性格傾向、精神状態)から発生し、専ら「他人が自分の顔を見て笑つた。」等の関係被害的な動機に基づくものであるため、病状との間に密接な関連性があり、丁原の病棟への適応が良い時には暴力行為が減少するが、病状が悪化すると増加するという関係にあること、〈3〉丁原は、立腹、苛立ち、屈辱感等の否定的感情を喚起する対人関係要素に対して過敏であり、これらの感情によつて容易に攻撃行動を解発される傾向があること、〈4〉丁原の病状が悪化した場合には、暴力行為の増加のほか、作業療法・レクリエーション療法への不参加、不眠、終日横臥、他の患者に対する食物強要等の問題行動が現われ、被害的解釈傾向が顕著になること、〈5〉丁原は、六--二病棟に転棟した当初(昭和五九年一二月ころ)にも病状が悪化し、他の患者に対する暴力行為や睡眠妨害等の問題行動が多いことから、当時の主治医の判断で、約一か月間夜間だけ保護室に入室していたこと、〈6〉丁原の病状は昭和六一年九月ころから悪化し、本件事故発生までに、カルテ及び看護記録に記載があるだけでも他の患者に対する暴力行為を一〇回起こしているが、これらの暴力行為はいずれも関係被害的動機に基づくもので、そのうち一回(昭和六一年九月一五日)は相手に傷害を与えていること、〈7〉丁原は、昭和六一年一一月以降、暴力行為に加えて日常生活における不眠・不穏、看護人に対する拒否的・反抗的な態度、他の患者に対する攻撃的・挑発的言動、食物強要等の問題行動が目立ち、その根底に不安や衝動性の亢進が存在していたこと、〈8〉同年一二月のウインタミン増量の結果、丁原は、昭和六二年一月時点では、他の患者に対する暴力行為は減少しつつあつたものの、異常な徘徊、独語空笑、物に対する攻撃的行動等に徴表される不安、イライラ感は残存しており、昭和六二年一月二四日にも欲求不満が強いと診断されていたことが認められる。

以上の事実によれば、丁原は、本来、関係被害念慮に基づく暴力行為を伴う精神分裂病患者であるが、昭和六一年九月ころから、無為好褥、易怒不機嫌、拒否反抗、不眠など非特異的な病状悪化が認められるようになり、同年一一月ころからは、暴力行為に加えて異常行動が目立ち、人格の退行・解体が強まり顕在化された状態になつていたものであるから、これに伴い、関係被害念慮が著しく増強された状態になつていたものと推認することができる。

(2) また、前記二で認定した事実及び前掲各証拠によれば、〈1〉丁原は物事を被害的に解釈する傾向が強いこと、〈2〉丁原には、昔の恨みを思い出して後から報復のため暴力を振るう性格的傾向があり、昭和五八年一二月二〇日及び昭和五九年六月二九日には、以前馬鹿にされて腹が立つたという理由でY(患者)に暴力を振るつた前歴があるところ、後者は、昼間の出来事を根に持つて夜中に睡眠中の相手に暴力を加えたという本件事故に類似した態様であること、〈3〉右の事実は、丁原が八--一病棟に収容されていた時期のものであるが、丁原のカルテ及び看護記録には記載されており、丁原が六--二病棟に転棟した後も同病棟の医師及び看護人らには十分認識可能であつたこと、〈4〉丁原は、昭和六二年一月三〇日昼、乙山に買い物を強制したことから保護室への入室を命じられたが、その際、自分が保護室に入れられたのは乙山の告げ口が原因であると思い込んで乙山を恨み、「告げ口した。」「覚えてろよ。」と言つて乙山を罵り、乙山への恨みを表明していたこと、〈5〉丁原は、同日夜八時ころ、看護婦に拒薬傾向を注意された際にも、拒否的・反抗的な態度を示し、不安定、不穏な精神症状が継続していると見られる状態にあつたことが認められる。

以上の事実によれば、永島医師及び看護人らは、従前から、丁原に分裂病欠陥状態としての被害的解釈傾向、恨みが強い性格的特徴、過去の恨みを原因とする暴力行為の前歴があることを認識しており、また、本件当時、丁原が乙山に対する買物強要を原因として保護室に入室させられたことから、乙山に恨みを抱き、不安、不穏な精神状態にあつたことを認識することが可能であつたことが推認される。

(3) 前記(1)、(2)の各事情を総合すれば、昭和六二年一月三〇日の本件事故前の丁原は、乙山に対して暴力行為に出る蓋然性が相当高い不安定な精神症状を呈していたもので、そのことは、当時、永島医師及び看護人らにおいては認識しえたものであるから、同医師らが、丁原が乙山に対して暴力行為を起こすことを予見することは可能であつたということができる。

(二)(1) 被告は、昭和六二年一月以降、丁原の病状が作業療法及びレクリエーション療法による対人関係改善により軽減し、自己抑制的になつていたことを根拠に、当時、丁原が他の患者に対する暴力行為を発生させることは予見不可能であつたと主張する。

しかし、《証拠略》によれば、物に対する攻撃的行動は、患者の主観的な幻覚や妄想に基づいたり、愛情の歪んだ表現であつたり、怒りや敵意などの否定的な感情によつて行なわれるなど、人に対する暴力行為とほとんど同一の原因に依拠することが認められ、これに、昭和六二年一月時点では、丁原にそれまで見られなかつた異常徘徊、独語空笑等の症状が表われ、欲求不満が強いという診断がされていたという前記事情を考慮すれば、昭和六二年一月以降、人に対する暴力行為が減少し、物に対する攻撃的行為が増加したとしても、右は表面的な現象で安定した状態ではなく、それがいつ人に対する暴力行為に逆戻りするかわからない不安定な状態であつたというべきであるから、これをもつて、直ちに丁原の暴力行為を予見することが不可能であると判断することはできない。

(2) また、被告は、丁原の粗暴行為が散発的であることを根拠に、本件当時丁原が他の患者に暴力を振るうことを予見することは不可能であつたと主張するが、《証拠略》によれば、精神分裂病は、急性期の症状が激しい時期を除けば、幻覚妄想などの病状に基づく言動は散発的に見られるのが普通であり、丁原のような慢性精神病患者の場合には、症状が持続していても常時それが生活面に反映し影響するとは限らないことが認められるから、これをもつて、直ちに丁原の暴力行為を予見することが不可能であると判断することはできない。

(3) 被告は、丁原の乙山に対する暴力行為及び食物強要が準開放病棟の患者間で日常的に見られる程度にとどまることを根拠に、本件当時、丁原の乙山に対する暴力行為を予見することが不可能であつたと主張する。

前記二で認定した事実によれば、丁原のカルテ及び看護記録には、丁原が六--二病棟に入つていた約二年二か月の間、一五名の患者に対して二五回暴力行為を行なつた記載があり、うちMが四回、A、B、Fが各三回、Iが二回被害を受けた記載があるのに対し、乙山が被害を受けた記載は一回しかないことが認められる。しかし、《証拠略》によれば、丁原の他の患者に対する暴力行為は、実際にはカルテ及び看護記録の記載よりも頻繁に発生していた疑いを否定することができず、七号室の他の患者は丁原の暴力行為に怯えていたが仕返しを恐れて看護人に通報しないことが多かつたこと、乙山は本件事故以前から丁原におやつを取られたり買物を強要されることが多く、断わると仕返しに暴力を振るわれていたことが認められる。また、《証拠略》によれば、当時、六--二病棟では丁原とJの二名の暴力行為が問題となつており、看護人らに対しても、右二名については、言葉を交わすなどして言動に注意し、暴力行為があつた時には保護室を使用するという指示があつたことが認められる。

これによれば、丁原の暴力行為は他の患者が怯えるような激しいものであり、準開放病棟の患者間で日常的に見られる程度に留まつていたということはできない。また、準開放病棟において、患者間の暴力行為や買物の強要が日常的に見られたり、病棟内に丁原より激しい暴力行為をする患者がいるからといつて、治療者たる医師及び看護人らが丁原の行動に対処しなくてよい根拠にはならず、これらの事情により、直ちに丁原の暴力行為を予見することが不可能であると判断することはできない。

(4) また、被告は、丁原が昭和六二年一月三〇日の保護室収容後には落ち着いた容態を示していたことを根拠に、本件当時、丁原の乙山に対する暴力行為を予見することが不可能であつたと主張する。

しかし、前記認定事実によれば、丁原は、保護室から退出した後、「告げ口した。」「覚えてろ。」などと言つて乙山を罵り、午後八時ころ、梅原看護婦に拒薬を注意された時にも拒否的・反抗的態度を取り、その後、七号室に帰つてからも「梅原覚えとけ。」と言いながら、畳を破損したり石鹸箱を割つたりしていたことが認められるから、右時点において、丁原の精神症状が鎮静化した状態にあつたものと認めることはできない。

(5) さらに、被告は、深夜は通常患者の活動・病状が安定しており、その時間帯における危険が予測しがたいことを根拠に、本件当時、丁原の乙山に対する暴力行為を予見することが不可能であつたと主張する。

精神分裂病の主要な症状の一つに不眠があり、患者が不眠のため他の患者に対する迷惑行為に及ぶことがあるのは前記認定のとおりであり、証人藤森の証言には、深夜勤の時に患者同士のトラブルが発生したことも年に二、三回はあるなど、むしろ深夜のトラブルを認める趣旨の供述部分があるから、頻度が少ないからといつて、深夜の暴力行為に対する予見可能性が否定されることにはならない。

3  医師らの過失について

(1) 前記2(一)の事情によれば、丁原には、従前から、その症状ないし性格傾向に基づき、他の患者に対する暴力行為が散見されていたから、浅尾院長、永島医師には、丁原に対して開放的処遇を継続するに当たり、看護人に対して、他の患者に比較して特に重点的に看護、看視し、毎日の病状推移を報告するように指示し、職員相互間で丁原の症状、動静に関する申し合わせを徹底するほか、丁原に病状悪化の徴候が現れた場合に備えて、丁原の看護、観察が十分図れるようナースステーションに近い部屋に移したり、丁原に対する巡回回数を増やすなどして、丁原の動静に気を配り、事故の発生を可及的に防止する措置を取るべき義務があり、ことに、丁原が特定患者に対し恨みを抱くに足りる出来事が発生し、丁原がその患者に仕返しのため暴力を振るう兆候が看取される時には、丁原と当該患者との人的関係を注意、観察し、場合によつては部屋替えを検討したり、丁原を一時隔離したりすることにより、当該患者に対する暴力行為を可及的に防止する措置を取るべき義務があるというべきである。

しかるに、前記二で認定した事実によれば、同医師らは、看護人に対し、昭和六一年九月二四日のケースカンファレンスにおいて、丁原の暴力行為への対処として保護室を使用するよう指示するとともに、丁原が暴力を振るつたら止められるよう言動を観察するようにという一般的指示を与えていたのみであり、昭和六一年九月以降、丁原の病状が悪化し、暴力行為が増加していたにもかかわらず、看護人らに対し、丁原の毎日の行動、病状の推移を報告させることもなく、前記ケースカンファレンス以後に、丁原の暴力行為・問題行動の増加に応じて適宜ケースカンファレンスを実施し、職員相互間で丁原の病状経過、動静について共通の認識を持たせることをした形跡もない。

また、昭和六二年一月三〇日には、丁原は、乙山への買物強要のために保護室に入室させられ、その際、乙山に告げ口されたと考えて不満気な様子を示していたものであるから、右時点において丁原が乙山に対して恨みを抱くに足りる出来事があつたというべきであり、また、丁原は乙山に「告げ口した。」「覚えてろよ。」と罵るなど被害念慮に基づくと見られる言動をしていたのであるから(丁原の右言動は、永島医師らも認識していたものと推認され、仮にそうでないとしても、丁原の右言動は同医師らにおいて把握していてしかるべきことであり、同医師らにそれが出来ていなかつたとすれば、前記義務の懈怠によるものといわざるをえない。)、同医師らは、丁原の保護室退室後、乙山と丁原との関係を注意、観察するべく丁原の行動に対する看視を強めるとともに、部屋替え、保護室の使用を含む一時隔離などの措置を取つて、丁原の暴力事故の発生を未然に防止すべき義務があつたというべきところ、同医師らは、右措置を取ることについて検討すらしていなかつたものであるから、同医師らには右注意義務を怠つた過失があつたというべきである。

(二) 被告は、同医師らが患者間の相性、年令、病歴、入院歴を総合的に考察し、安全管理面の注意を尽くしたうえで、丁原と乙山を七号室に入室させたと主張するが、《証拠略》によれば、六--二病棟では、部屋割りについて、よく観察する必要のある患者やあまり寝ない患者に対しては詰所に近い部屋を割り当てるという方針はあつたが、部屋割り自体は大体において婦長が決定していたこと、丁原の病状が悪化し始めた昭和六一年九月から本件事故までの間、看護人らは、丁原の暴力行為の対象や同室の他の患者との人間関係をあらためて検討したうえで、丁原について部屋替えを検討したことはなく、部屋割りについて医師らと相談したこともないことが認められるから、右主張は採用することができない。

4  以上によれば、本件事故は、浅尾院長及び永島医師の過失により生じたものと認められ、被告が浅尾院長及び永島医師の使用者であることは当事者間に争いがないから、その余について判断するまでもなく、被告は、本件事故により原告らが被つた損害を賠償する義務を負うものと言わねばならない。

四  損害について

1  慰謝料

《証拠略》によれば、乙山は大正一四年一二月二三日生で、本件事故当時六一歳であつたが、昭和二三年二月一三日精神分裂病のため戊田病院に措置入院し、昭和四八年三月一〇日措置入院解除となり、翌一一日以降は枚方市から生活保護を受給して、本件事故が発生した昭和六二年一月三一日まで同意入院を継続していたこと、乙山は戊田病院入院から死亡までの約三九年間、一度も親族の家に外泊したことがなかつたこと、乙山の両親が死亡した後、妹の原告丙川春子が保護義務者となり、月に一度位の割合で面会に赴いており、また原告甲野花子が極く稀に面会に赴いていたが、その他の兄妹などの親族が乙山の面会に来たことは一度もなかつたことが認められる。

右事情、本件事故の態様、乙山の年令、生活状況等の諸事情に鑑みれば、乙山の死亡による慰謝料は四〇〇万円とするのが相当である。

2  葬儀費用

弁論の全趣旨によれば、原告らが乙山の死亡による葬儀を主宰したことは認められるが、その具体的な金額については証拠がないので、その葬儀費用としては六〇万円とするのが相当である。

3  弁護士費用

本件事案の性質、審理の経過及び認容額等に照らすと、本件事故によつて生じた損害として賠償を求めうる弁護士費用は五〇万円とするのが相当である。

4  乙山の被告に対する右損害賠償請求債権につき、相続により、原告甲野花子、同乙山松夫及び同丙川春子は各四分の一、同乙山夏子は八分の一、同乙山秋子及び同乙山一郎は各一六分の一の割合で承継取得したことは明らかである。

5  以上によれば、被告に対し、原告甲野花子、同乙山松夫及び同丙川春子は、それぞれ前記1ないし3の合計金五一〇万円の四分の一である一二七万五〇〇〇円、同乙山夏子は、右合計金の八分の一である六三万七五〇〇円、同乙山秋子及び同乙山一郎は、それぞれ右合計金の一六分の一である三一万八七五〇円並びにこれに対する不法行為の後である平成元年一〇月二八日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払請求権を有する。

五  結論

以上の次第で、原告らの本訴請求は、前記四4記載の支払を求める限度で理由があるから認容し、その余は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を適用し、仮執行宣言については、相当でないからこれを付さないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 竹中省吾 裁判官 一谷好文 裁判官 阿多麻子)

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